やる気のある無能
生まれてこの方、音痴である。
高音は出せず、音程をことごとく外し、リズム感はどこかに置いてきた。
中学校の合唱コンクールの練習では、他の生徒がやる気がない時期は「声が出ていて偉い」と音楽教師に褒められた。しかし、クラス全員がやる気を出して完成度が高まると「もう、そんなに頑張らなくていいよ」といさめられた。かのフランスの皇帝ナポレオンも「やる気のある無能」は一番害悪だと言っていたそうだ。フランス帝国なら処刑されていた。
一方で、歌うことは嫌いじゃない。特に高校時代は毎週のように友人とカラオケボックスに入り浸っていた。当時はデフレ時代であり、とにかく料金が安かった。1日いても千円かからなかった。しかし、上達する気配は一切なく、いつしか僕が歌うタイミングはトイレ休憩の時間と化した。自分の下手くそな歌唱を他の人に聴かせるのが段々と申し訳なくなり、年を重ねるにつれて、カラオケからは自然と足が遠のいていった。
自分の思いのままに歌を歌えたら、どんなに気持ちがいいだろうか。嫉妬の悪魔と化した僕は、アカペラサークルで大学生活を謳歌する友人に悪態をついた。そもそも、なぜここまで同じ人類なのに差があるのだろうか。歌がうまい友人はさほど特別なトレーニングをしているわけでもなく、自然と音程を取っている。自分の耳が悪いのか、それとも喉が悪いのか。答えは分からぬまま月日が過ぎ去り、いつのまにか30代後半になっていた。
このままでいいのか。ふとそんな思いが沸いてきた。ボイストレーニング(ボイトレ)を受けてみたら、もしかしたら変わるんじゃないか。ボイトレといえば、歌手を目指すような、元々歌がうまい人が受けるイメージがあるが、音痴向けの対応もあるのでは。調べてみると、新潟市内に無料体験があるボーカル教室を見つけた。さっそく申し込んでみることに。何かをやり遂げる根性はないが、こうした思いきりの良さは意外とある。
放送事故レベルの72点
無料体験は課題曲を1曲決めて、CDなどを持ってきてほしいという。どうせなら、上達を感じられる曲にしたいと思い、スピッツの『チェリー』に決めた。世間的にはさほど難しい曲ではないと思うが、自分は高音を出せないので苦戦する。高校時代は携帯電話の着メロ(死語)にも使っていて、思い入れがある曲でもある。CDを探したが既に自宅にはなく、使い古した「iPod mini」の中にだけ入っていた。この「iPod mini」は既に充電機能は失われており、電源に常時つないでいないと起動しなくなっていた。持ち運ばれることを拒否するポータブル機器。僕よりやる気がない。
体験教室に通う前に、現状を確認したいと思い、歌が達者な友人を誘って、カラオケに行くことにした。さっそくチェリーを入れると、案の定ほとんど歌えない。特に高音のサビの部分は全く出せず、苦しい悲鳴のような声が漏れ出た。でも、本当に悲鳴を上げたいのは歌を聴かされる友人たちである。採点結果は72点。M―1だったら、放送事故レベルだ。他の友人達はちゃんと90点台を出しているので、決して全てが辛口審査だったわけではない。もっとみんな遠慮せずに70点台を出してほしい。
ただ、カラオケの採点を続けていると、何個か気づくことがあった。高音が出せないのもそうだが、音程を外しているのは意外にも低音の部分だった。高音から低音に下がるメロディーとなると、全く太刀打ちできない。それでも、久しぶりのカラオケ自体はとても楽しく、満を持してボイトレの体験教室に臨むこととなった。
歌うコツはマキバオー?
大雪の日、貸しビルの階段を上り、3階にあるボーカル教室を訪れた。ロビーのような空間で、同年代くらいの明るい女性講師が対応してくれた。志望動機として、自分がいかに恥の多い人生を送ってきたかを説明。
「自分は他の人のいい声を聴いているのに、自分は周りに下手な歌を聴かせることが申し訳ないんですよ。ギブ・アンド・テイクが成立していないというか」。
一体、何をしに僕は来たのか。完全にカウンセリングだ。ただ、先生は嫌な顔を何一つせず、話を聞いてくれた。終始、感じのいい人だ。彼女は「人生、変わる人もいます。私が何とかします」と力強い言葉をくれた。当の僕は、職場の先輩に顔が似ているなと余計なことを考えていた。
スタジオに入ると、さっそくチェリーの1番を歌うことになった。確実に音程を外すことが分かっている歌を、プロの前で歌うのはなかなか恥ずかしい。案の定サビの声は裏返り、我ながら断末魔のようだった。愛してるの響きだけでは全く強くなれる気がしなかった。
さっそく腹式呼吸の練習が始まった。「高い音が出せないのは、喉で声を出しているから」とのこと。その後、腹式呼吸に合わせてハミングをする。眉間の辺りを響かせるイメージだという。確かに腹式呼吸をしながらだと、心なしか音が響いている気がする。ハミングの「んー」の後は「あー」と実際に声を出すことになった。
その際、先生が「マキバオーって知っています?」とおそるおそる訊ねてきた。僕がうなずくと「よかったぁ、同世代だから知ってるかなと思って」と安心した様子。突如、スタジオに漂う平成の空気感。
「マキバオーって『んあ』って鳴くじゃないですか。そんな感じで声を出してみてください」。
つまり、ハミングから移行するような形で「あー」の音を出すと最初はやりやすいらしい。しばらく、ひたすらマキバオーの声まねを繰り返す。その甲斐あってか、確かに音が響いてきた気がする。
最後にもう一度チェリーを歌ってみると、少し音域が広がった気がしてきた。これは、もしかしていけるかもしれない。
レッスン後、そもそも素朴な疑問をぶつけてみた。
「凡人がそもそも物理的にスピッツって原曲キーで歌えるもんですか?」
「全然可能です。多分原曲キーの方が歌いやすいと思います」
意外な返答。
単純なので、すぐその気になる自分。その場で入会届を記入したのだった。
続く。








