2023年11月19日

ドリームカムトゥルー

 

夢の話をするのは難しい。
I have a dream.

キング牧師が語る夢の方ではなくて、眠った時に見る夢の方。

どんなに面白い夢を見ても、その映像は誰にも共有できないからだ。

そもそも記憶はおぼろげだし、面白く伝えるためには相当なトーク力が必要だと思っている。それでもあえて、無謀にも夢の話をしてみたい。

最近、見た夢はこんなだった。

証明写真が必要になったチンピラが間違えてプリクラ機に入る。

プリクラは機はいつも通り、いろいろなポーズを要求していく。

「何でこんなことしなきゃいけないんじゃ」としぶしぶ応じるチンピラ。

完成した写真を見て、プリクラ機にまたキレる。

ちょっとしたコントみたいで夢の中で笑っていたが、

夢である以上、自分の話に自分で笑っているみたいで少し恥ずかしい。

いや待てよ、これは新たなビジネスチャンスかもしれない。

検索かけてみる。

証明写真が撮れるプリクラ機、実際にありました。

 

X3乗

 

ツイッターをエックスと言い換えるのもエネルギーがいる年になったね」

久しぶりに一緒に飲んだ高校の同級生が言う。

冗談めいた口ぶりだったが、確かにそうかもしれない。

自分はまだエックスをツイッターと呼んでいる。

いつかまたツイッターに戻るのではないかという淡い期待があるからだと自分では思っていたが、単に年を取って柔軟性を失っただけかもしれない。

エックスって言葉は一般的過ぎて、個性失われているじゃん。

会ったこともない経営者のセンスに内心キレてはいたが、これも寛容性が失われてきている証拠かもしれない。

CDをレコード、イオンをジャスコといつまでも呼び続ける人がいる。

結婚で名字を変わった社員をいつまでも旧姓で呼び続ける上司もいた。

当時は違和感しかなかったが、確実にそちら側に近づいている感覚がある。

さぁ、いつかツイッターをエックスと呼ぼうか。

そんな風に悩んでるうちに、また名前が変わっているかもしれない。

2023年10月29日

摩擦0

自分の指先が時々信じられない。

普通に物を掴んだつもりでも、断りなくつるりと滑り落ちる。

スマートフォンは頻繁に地面にたたきつけられている。

なかなか気の毒だ。

本当に何でも落とす。

僕とボードゲームを遊んだ人ならば、駒を落としてテーブルの下でゴソゴソしている光景をよく見ているかもしれない。

申し訳ない気持ちでいっぱいだが、雑に扱っているわけでもない。

他人と比べて摩擦力が相当少ないのでないか。本気で疑っている。

ただ、それを知る検査は今のところ知らない。

一方で、鍛えられていることもある。それは反射神経。

あまりにもスマートフォンを落とすものだがら、それを地面に落下するまでにキャッチする力が身に付いてきた。人間は環境に順応するようだ。

でも本当は物を落とす力より、話を落とす力の方がほしい。

 

オンスケオポチュニティ

社内でも中堅になり、後輩の面倒を見る立場になった。

特に新人さんは初めての経験が多いので色々と苦しんでいる。

サポートしつつも「同期で愚痴を言い合いなよ」と声をかける。

すると「忙しいアピールみたいになるのが嫌なんです」

と返ってきた。人間それぞれ美学があるものだと感心した。

社内の人事には関心がないことを主張する人もいるが、それも美学。

自分の誕生日には関心がないことをアピールする人も、これもまた美学。

ちなみに僕はなるべくカタカナ語を使わないことを美学としている。

そのため、コミットもアグリーもフィックスもできない。

ボードゲームコンポーネントも駒などと言い換える。上の文章のようにね。

2023年10月22日

押すか押されるか

 

初めてバスの降車ボタンを押すときは緊張した。

本当にこのバス停でいいのか。

まだ押すのは早いのではないか。

自分の意思を車内全体に伝える勇気が必要だった。

 

回転ずしで店員さんに初めて直接注文した時も緊張感があった。

流れてくる寿司には満足せず、自分の主張を貫く意思の強さが求められた。

さらに「さび抜き」という特別なオーダーを臆せず言えるのか。

生きる力が試されていた。

子どもが家族以外との社会とつながる瞬間といえば大げさだけど、

どっちも大切な成長への階段のように思う。

 

今では回転ずしの方はタッチパネルの注文が主流となり、

その勇気はもう必要なくなっている。

少し寂しい。

恋人の家に電話をかけて親が出た時の思い出を語る親世代のような気持ち。

 

一方で、路線バスのシステムは今も変わっていない。

今思えば降車ボタン自体がタッチパネルのようなもんだし、きっとかつては運転士に直接声をかけていた時代があるのだろう。それに比べれば元からイージーモードだ。

 

ただ、押すタイミングは今も少し悩む。

バス停名が告げられてすぐに押すのはガツガツしているようだし

押そうと思った瞬間、ほかの人に押されてしまうのはちょっと悔しい。

押すのか、それとも押されるか。

人知れず、小さなチキンレースを毎日繰り広げている。

 

2023年9月24日&10月1日合併号

耳をふさげば

 

9月に部署が移動し、車を運転する時間が増えた。

生粋のドライブ狂でもないので、それなりに退屈だ。

気ままにカーラジオを流すのも悪くはないが、もう少し有効活用したい。

そんなわけで、3年ぶりに「オーディブル」に登録してみた。

 

Amazonが提供している書籍の読み上げサービスのことで、

俳優や声優が小説やビジネス本などを朗読してくれる。

忙しいとすぐ言い訳をして読書量を確保できない現代人にとって革命的なツールだ。

しかも人気作、話題作が結構そろっているので、選ぶ楽しみもある。

以前に登録した時は無料で聞けるのは1か月に1作だけだったが、今は完全に聞き放題。さっそく池井戸潤の『ハヤブサ消防団』を耳で読んだ。

 

二つのことを同時にこなせると、充実した気持ちになりがちだ。

普段は部屋にうず高く積まれた洗濯物も、オーディブル聞きながらならば、

喜んでタンスにしまうし、シンクにたまった食器も率先して洗い出す。

単純作業と非常に相性がいい。

 

そしてだんだんエスカレートしていく。

頭を使わなくていい作業、トイレ、食事、入浴中。

ありとあらゆる生活場面にオーディブルが侵食してきた。

続きが気になる展開がずっと耳に流れ込んでくるため、止められない。

もはや支配されていた。

 

このままではいけない。

我に帰ってイヤホンを外すと、心地よい雑音が聞こえてきた。

2023年9月17日

扉の先は

 

また、やってしまった。

中に人がいなくてよかった。

 

自分の車に似た他人の車のドアを開けようとすることが度々ある。

単なる確認不足だが、周りに持ち主がいれば一瞬即発だ。

幸い、これまでは何とか最悪の事態は避けられている。

原因は駐車した場所の忘却と思い込み。

老化が進めば、他人の車に手を出す確率がもっと増えそうだ。

いい言い訳を考えているが、なかなか妙案が思いつかない。

 

今思えばドアを間違えるのは車だけじゃない。

最も多い現場は居酒屋だ。

トイレから戻ろうとする際、たいてい隣の部屋を空ける。

中には見知らぬ酔客が盛り上がっている。

愛想笑いを浮かべながら、そっと扉を閉じる。

居酒屋の扉はどれも似すぎている。

 

家を間違えたこともある。

学生時代、二次会を後輩の家ですることになった。

曖昧な記憶で見事、後輩宅の隣の扉を開けた。

 

「だ・・・れ・・・?」

 

中にはしっかり住人がいた。

こちらも酔っぱらっていて状況をすぐに飲み込めない。

しばらく立ち尽くしたこともあり、住民にさらなる恐怖を与えてしまった。

ここが米国なら僕の命はなかった。

その恐怖体験はブログに書かれるぐらいはしたかもしれない。

 

扉はもう間違えたくない。

でも人生において、どの扉が正しいかなんて分からないのが悩ましい。

2023年9月10日

賞味期限切れのパンデミック

 

流行の最先端を追ったルポルタージュは読む価値は高いが、

流行が落ち着いた事象を描くルポルタージュの価値は薄い。

これは、そんないまさら感にあふれた新型コロナウイルスの感染の記録である。

 

新潟県内で初めて新型コロナウイルスの感染が確認されたのは2020年2月。

そこから3年と7か月。ずっと回避し続けた陽性(アタリ)をついに引いた。

上司から9月11日(月)までの休養を言い渡される。

早く体調がよくなれば、それだけ自由時間も増える。

体温が上がり始めたばかりの体はまだそんな程度にとらえていた。

 

しかし、思った以上に発熱がしぶとい。

発症初日に39度手前まで上がった対応は翌日には40度超えを記録。

39度のとろけそうな日どころじゃない。

Tシャツはバケツで水をかけられたようにずぶ濡れになる。

何度も着替えては、洗濯機に放り込む。

高熱で思考力が落ち、あてもないのに自宅内を徘徊する。

結局この高温フィーバー状態が丸二日半続いた。

 

次にやってきたのが咳と痰のコンビネーション攻撃。

これが地獄だった。

気管支はスチームパンクの機械音のように叫んでいた。

ベッドの周りはうずたかくティッシュの山が積まれていく。

体がとても元気な人みたいだが、逆である。

眠りに落ちたとしても痰が呼吸を止めるため、自身の咳でたたき起こされた。

これが辛い。

さらには、その繰り返しで喉も傷めるので、まさに三重苦。

これが4日目に入った9月10日まで続いた。

 

新型コロナウイルスが5類になる以前なら、検査キットから食料品までさまざまな無料支援が受けられたが、今や全て実費だ。間が悪かった。

しかも幸か不幸か対戦経験もなかったので、ひどく心細い戦いだった。

先の見えない病は恐ろしい。

 

まもなく快方に向かいそうなので、ようやくブログもかけるようになった。

今回の罹患で公私ともに様々な計画が狂ってしまい、柄にもなく落ち込んだ。

この悔しさを何かにぶつけたい。

ふと、ゲーセンの*1ボコボコになったばいきんまんの顔が思い浮かんだ。

 

*1:バンプレスト社のアンパンマンばいきんまんたいじ!幼児向けのゲームで、ボールを左右に動くばいきんまんに当てる。長年の稼働によって、悲惨な状態になった姿がインターネット上にたびたび上がっている

2023年度上半期振り返り

2023年の4月からブログを書き始めて半年が経過したので、ふりかえりを書きます。

もともとの動機

友人が今年1月から、「週報」と名付けた週1回更新するブログを始めて、そのスタイルがとてもよかった。何気ない日常の変化を見逃さずに切り取る巧みさがある。文章に余計な虚飾がなく、シンプルで美しい。それでいてユーモアも忘れない。自分はこのような文章は書けないかもしれないけれど、文章のトレーニングを積みたいと思っていたこともあり、自分も始めてみることにした。

ルール

週報を書くにあたり、友人はいくつかのルールを課していたようだ。

■必ず日曜の夜に書くした。
■できれば1時間、長くても2時間以内に書き終える
■愚痴や悪口を書かない

以上が、友人のルール。

僕はそこまで厳密にルールを考えていなかったけれど、自ずと意識していたことは何個かあった。

 

◎導入とオチを意識すること

小学生の作文がなぜ小学生の作文らしいかというと、物事を時系列に書いてしまうからだと思う。朝起きて、学校に行って、体育の授業で・・・と続いていく。

引き付ける文章を書くためには流石にそういうわけにはいかないので、しっかり文章の入り口は意識するようにした。

入口以上に難しいのが文章の出口。オチが綺麗に決まった文章を書けると、それはもう快感だが、そう簡単にはいかない。実際ほとんどオチのない回も多かった。きっとオチを先に考えて構成した方がいいのだろう。これは今後の課題としていきたい。

 

◎駄作でも世に出すこと

友人が制限時間内を設けたことと似ているかもしれないけれど、長い時間をかけて書いたとしても必ずしもよい文章になるわけではない。むしろ勢いで書いた方がよかったりすることはままある。明らかに駄作だと自分で分かっていたとしても、これはあくまでもトレーニングと割り切って出すことにしている。きっとその駄作が今後のためになると信じて。

 

◎内輪ネタを避けること

どんなにその場では盛り上がったとしても、内輪ネタは外に出すと色あせてしまう。

盛り上がった思い出は大切にしつつも、なるべく内輪ネタは避けるようにした。ちょっとマニアックな話なら、補足説明も入れるようにした。背景が知らない人にも理解してもらえるように。ただ、そうすると説明臭い文章にもなってしまう。そこらへんのバランス感覚は難しい。

所感

友人と同じ週報というスタイルを取ってみたものの、同じ作業を繰り返すのが苦手な性分は変わらず、書けない週も度々あった。反省。それでもなるべく毎週書こうと思うと、スケジュールをきちんと管理するようになり、それは思わぬ副産物だった。

日常生活でふと感じたことををメモするようになった。それを一つ一つ取り上げて成仏させていくのはちょっとしたカタルシスで、心が安定する気がした。

しばらく書いて感じたのは、自分は内省的な文章が書けないということ。心の機微があまりないのかもしれない。優れた文学は苦悩だとか葛藤を描くけど、その才能はあまりないようだ。

ツイッターの文章と違って、ブログを読むためにはワンクリックのひと手間増える。

それでも読んでくれる人がいてリアクションがあるのは単純にうれしい。

これぐらいの承認欲求は満たされてもいい。

これから

9月から生活が変わり、土日もほとんど仕事になる。旅行やレジャーに行く機会は減り、より変わり映えのない日々が続くかもしれない。その中で文章を書き続けるのはセンスがより求められそうだ。週報を書く曜日は変わるかもしれないけど、しばらく文章修行として続けていきたい。